最近は中高生に講演をする機会も少し増えてきたので、大学入学前の話を聞かれることも多くなってきました。私達のHPをご覧になる方にとってはあまり需要のない話かと思いますが、大学生よりもより若い世代の方に向けて概略を記載しておきます。

孔子の「吾十有五にして学に志す」にあるように、connecting the dotsの番外編として「志学」をテーマにします。

〜小学校時代

鉄鋼系の会社で営業の仕事をしていた父と専業主婦の母の長男として生まれた。医師や研究者によくあるのは、親が医者だったり、研究者一族だったりということだが、そういう意味で私は「サラブレッド」では全然ない。そもそも父方・母方の親戚のうちで、大学以上を卒業しているのは父だけである (他はみな高校を出て仕事等をしている)。その父も経済学部を出て就職しているので、理系出身は両親世代には誰もいない。そういう点では、私は医師や研究者にとってレアパターンかもしれない。

両親とも北海道出身だが、転勤族であちこちを異動したそうだ。私が覚えている最初の場所は千葉の我孫子市で、そこで2学年下の弟が生まれた (現・某省庁の国家公務員)。父が仕事にいき、母は産科にいるので、この頃は祖父・祖母が面倒を見にやってきてくれた。特に祖父は毎日散歩に連れ出してくれ、好きなソフトクリームをごちそうしてくれた。その後、茨城県牛久市に引っ越しをして、そこで幼稚園に2年間通った。この頃のことは残念ながらあまり覚えていないのだが、ある週末の夕方に父に将棋の駒の動かし方を教えてもらい王の駒を盤の端に置かれどこに動けるのか聞かれたことと、電車の運転手に憧れていたことは覚えている。

牛久市の市立小学校に入学した低学年の頃は、学校のすぐ隣に「宝の森」と呼ばれるちょっとした森があり外で遊ぶのが好きだった。好きだったのだが、2月末生まれ (早生まれ) だったからか、同級生と比べてかけっこは遅く他の体育の種目も苦手だった。この頃に水泳を習い始めたのだが、特に最初は習得が遅かった。中学年になってから外というよりは学校の図書室から市立図書館から借りてきた本をいろいろ読むのが好きで、特に図鑑の類やパズルの本、ファーブル昆虫記、それに幼稚園の頃に父に教わった将棋の戦術書などは何周読んだか分からない。3年生の秋にそろばんを習い始めたのだが、水泳と違いそろばんは向いていたのか進級はとても速く、10級相当からはじめて1年で3級に合格した。週に2回通っていた竹内そろばん暗算教室の練習の他に、毎日家で練習をしていた。

高学年になると、周囲は塾に行く人が多くなった。田舎の小学校だからか、私立の中学には興味なく最初から中学受験をするつもりはなかったので、自分としては5年生のうちは1つを除いて特に大きな変化はなかった。その1つとは、5年生のときに弟 (現・大手企業の技術/開発職) が生まれたことである。11離れた兄弟なので、兄というより小さな父のような感じだったかもしれない。6年生になり、転校生の播磨くんがやってきた日のことはよく覚えている。その子は東大医学部を目指し小学校の低学年のうちから塾に通っているのだという。後日塾で使っている問題集を見せてもらうと、小学校で習う範疇を大きく超えた難問奇問だらけで驚いた。算数の問題は算数というよりパズルのようだったし、社会の問題は例えば奈良時代の二官八省一台五衛府制度など聞いたこともない用語をすらすら説明してくれた。都会育ちの同級生と接点を持つのはこれが初めてだったが、こんなに違うのかと感じた。播磨くんはクラスも違ったし開成中学に合格しそちらに行ったので接点は6年生の間だけだったが今でも覚えているということはそれだけ大きなインパクトだったのだろう (その後 東大医学部に行けたのだろうか?)。1学年は150名規模の小学校だったが、君島くんや山田さんはじめ若干名が私立に進学したものの、その他のほとんど全員は一緒に同じ公立中学に進むことになる。

塾に行く人達は勉強に使う時間が増えていたわけだが、私は相変わらず勉強とは直接関係ないことに時間を使っていたと思う。小学校の6年間ずっと習っていた水泳は最初はだいぶ時間かかったが6年間かけてそのスイミングスクールの一番上のクラスまで到達したし、そろばんは何度か試験に落ちて悔しい思いをしつつも練習に励み、小学校6年生の頃には小学生の茨城県大会で入賞 (上から8番以内) したし、小学生の将棋大会では優勝した。

小学校はテスト問題が簡単で成績評価も絶対評価だったため差がほとんどつかないので学業的には実際はどうだったのか分からないが、みんなと同じくらいだったのではないだろうか。

中学時代

小学校時代の大多数のメンバーと、そしてもう1つの小学校を卒業した人たちと公立中学で3年間を過ごした。1学年は230人規模だった。この頃になるとほとんどの人が塾に通っていたが、相変わらず小学校の頃の塾にはいかない、自分で勉強するスタンスを貫いていた。というのも、この頃にはもう病気の研究者になることを決めていて、それはつまり自分で一生勉強を続けなければならないわけだから、そのためには今のうちから自分で学ぶ力をつけなければならないと思っていた。確かに塾にいけばいろいろな分析をもとに作られた教材と受験指導の経験豊富な先生の授業で効率よく勉強できるのは知っていたが、そのようなレールに載せられたコースが通用するのは大学受験までで、そのさき医学生となりさらに医学の研究者になるとそのようなレールはないわけだから、医学生のような難しいことを自分で学ばなければいけない立場になる前に、もっと簡単であるはずの目先の5教科を自分で学ぶ中で自立して学ぶ力をつけたかった

そのような考えのもと、いろいろなやり方を試してみた。試験の成績は、トップ層の私立中受験組が抜けた後だからという要素も大きいが、半数程度は1番、残り半数は2番という感じだった。1番争いをしていたライバルは山本さんで、彼女は後に東大の学部および大学院にいき生命科学を専攻したため、私とは比較的専門領域が近い。効率のよい塾にいかずに自力で勉強するということを選択したわけだから人よりも多く勉強することを自分に課していた。平日は部活から帰宅後3時間、休日は部活がなければ1日10時間くらいはやっていたと思う。ただ別に大変だとは思わなかった。中高生からたまに「どのような素質」が必要かと聞かれるが、そのときには「強いて言えば勉強が大変だと思わずに新しいことを学ぶのが楽しいと思えるか」というのを挙げている。

部活は卓球部に所属していた。同級生は15人いて、卓球の強さは2年生の夏の時点でその中では7-8番目のポジションがとれるかどうか、くらいの力だった。いたって平均的な力ということだ。だが不思議なことに顧問の先生は先輩方が引退した後、順当にいけばレギュラーにならないはずの順位なのに秋の大会から団体戦のレギュラー (6人) に入れてくださり、それ以降はレギュラー選手としていろいろな中学との練習試合などを経験させてもらった。牛久一中は当時は市内で最も卓球が強く、ブロック大会にも出場した。場数をこなすなかでもともとのレベルよりも強くなり、一度だけだが中学生の市大会で優勝したこともある。

小学校から続けていたそろばんも中学でも続けていた。そろばんにおいては中学生から「一般」枠として大人の選手たちと同じ階級になる。勉強や部活の傍ら、そろばんも継続的に毎日1時間強は練習に継続的に取り組んでいたため、中学2年のときに(複数ある種目の1つである) 読み上げ暗算競技で茨城県大会で初優勝し、中学3年には総合優勝し「茨城県そろばん名人」の称号を得た。継続は力なりというのを身をもって実感した。

中学3年生の受験生になっても、塾には行かなかった。相変わらず学校の授業と、市販の参考書や問題集で勉強をしていた。この頃になると周りのみんなも勉強時間が増えてくるためなかなかトップをとるのが難しくなったが、それでも学年3番以内はキープしていた。茨城県立の土浦第一高校が第一志望だったが、正直なところこの頃までには茨城県立の高校入試問題は非常に簡単に感じていたため、特に理数系に関しては開成高校はじめトップレベルの進学校で出題された問題を集めた問題集などを使っていた。これは小学生時代の播磨くんの影響が大きかっただろう。もちろんすごい難しい問題が多く、学校の先生達を質問攻めにして、数日後に先生方に教えていただくというのを繰り返した。卒業して何年もたってから知ったことだが学校の先生は非常に忙しい。余分な仕事を増やしてしまって申し訳なく思っているが、塾にいかない分、学校の先生方に熱心にご指導いただいたことは書いておきたい。

土浦第一高校には推薦入試がある。この推薦入試を受けたのだが、とても試験時間内に解き終わる量ではないことに驚いた。例えば「水の密度は何度で最大になるか、その理由とともに述べよ」など、県立高校の出題とは思えない難易度の高い内容で驚いた。入学後に知ったことだが、過去問が一切公開されていない推薦入試に合格するには塾が持つ受験生の情報をもとにした再現問題を解くのが大事だということで、塾には行っていないため初見の私には合格できないのが当然の試験だった。もとから倍率が10倍ほどある難しい試験だというのは分かっていたので不合格通知は軽く読み流して本命の土浦第一高校の一般入試をうけ、こちらは自己採点で9割5分ほどをとり、リベンジをすることができた。中3のときのクラスメートであった長尾くん (高卒後に大阪大学へ進学)や片山くん (高卒後に東工大へ進学) をはじめ、学年で10名弱の同級生が合格し同じ高校へ進学することになった。

高校時代

土浦第一高校は今は中高一貫の6年制になったようだが、私の時には高校しかなかった (なので6年制になる前のお話である)。当時も今も毎年100名以上の人が早稲田・慶応に合格し、東大にも20名程度、国立の医学部医学科にも20名程度が合格する茨城県内屈指の進学校である。

中学を卒業して高校入学までの春休みは、高校からのたくさんの宿題に取り組んでいた。中学までの勉強量とは打って変わり、こんなにもたくさんのことをやる必要があるのかということに驚くと同時に、頑張らないとなと決意を新たにした。また、この頃に高校の合格祝いに父から腕時計を買ってもらったが、それは今でも大切につけている。

高校までは家から電車を使って小1時間ほどだった。毎週英単語の試験があったので、行き帰りの電車の中ではもっぱら単語帳を開いて勉強していた。県立の学校だったので同級生はその学区内の各中学出身の人が大多数で、合わせて1学年あたり320名規模だった。塾には行かずに自分で勉強するスタンスがどれくらい通じるのか不安に思っていたが、試験の成績は1桁後半~10番くらいで推移していた。ただ授業の進みも少しずつ早くなってくるだろうから、小学校3年生から習っていたそろばんはさすがにそろそろ終わりにしないとなと思い、高校1年の夏の大会を引退試合と決めて練習に集中した。中3のときに引き続き、茨城県大会の個人戦で連覇することができ7年間打ち込んだそろばんはおわりにした。

部活は将棋部に入り、入ってすぐの1年生の春の大会から団体戦 (3人) メンバーに抜擢され、高校生の茨城県大会で団体戦で準優勝することができた。将棋は幼稚園からやっているということもあり、3年生の先輩方が引退した後は高校将棋部の主将として各大会に出場することになる。このときに感じたのはチームをまとめることの難しさである。将棋の力もまちまちで、取り組むモチベーションもバラバラのメンバーを如何にして束ねるか、それを部活から学んだ。2年3年の頃は部長として後輩の指導にも取り組むことになるが、これが私にとってリーダーとしてチームをまとめる最初の経験であった。

もう一つやっていたのは文化祭の実行委員である。いくつかある委員会の1つにおいて幹部をつとめていたが、単に参加するだけでなくずっと前からイベントを企画・準備していく過程も含めて貴重な経験をすることができた。

高校2年生の夏休みの宿題として、大学のオープンキャンパスに参加しその感想文を提出するというのが課された。漫然と医学部に入って医学研究者になるということは決めていたが、このときになってはじめてどこの大学の、というより具体的なことを考え始めた。1番の地元は筑波大学医学部だったが、隣にある千葉大学医学部も友人と一緒に見に行くことにした。また、インターネットで調べ東北大学が掲げていた門戸開放・研究第一主義に惹かれ、東北大学医学部もオープンキャンパスに行った。筑波大学や千葉大学はどちらも素晴らしい大学ではあるが、オープンキャンパスに参加して感じたのは、この2大学は研究というより如何に医療人を育てるのかということに重きをおいているのだなということである。一方で東北大はそれとは真逆で、研究力を早いうちから養えるような気がした。そのため、東北大学医学部を第一志望として考えるようになった (後日談になるが、この時の経験、つまり多くの大学では少なくとも学部生の間は研究できるチャンスが少ないということが、東京医科歯科大学で独立した直後にオンライン研究制度、つまり所属大学に関係なく意欲的な学部生さんに研究する機会を提供する制度を創設するモチベーションになっている)。高校2年生までは、学校の成績も10番以内を維持しており、また模試での東北大医学部の判定も悪くなかった。その本当の難易度を知ったのは3年生になってからである。

高校3年生は非常に濃密な1年間であり、今でもこの頃のことはよく夢に出てくる。先に述べた文化祭の本番があり、また3年間打ち込んだ将棋部の引退試合では優勝こそ逃してしまったものの茨城県大会で個人戦3位・団体戦準優勝と健闘したと思う。また、当時のクラスメート達とは今でも年1くらいで定期的にクラス会がありつながっている。このようなポジティブな思い出も多くあるのだが、勉強はとても苦しい期間が続いた。自分自身の成績はそれほど変わっていなかったが、高3の模試には既卒の人たちがたくさん加わってくるのである。

医学部入試に「あるある」なのだが、なかなか現役では受からず、数年間浪人をして次のチャンスを狙う人たちがいる。そういうすでに高校を出ていて受験勉強に専念している方を相手に、高3になりたてほやほやのうちは勝負にならない。そのため、東北大学医学部の判定は毎回のようにE判定だった。この頃は毎日10時間を超えて休日は12時間を超えていたと思うが、判定は夏になっても秋になっても変わらない。自分の力では永久に届かないのではないかと思ったことは何度もあるが、「現役生は最後に伸びる」という言葉を信じて勉強に打ち込む日々だった。

少し風潮が変わり出したのは、一番最後に受けた冬の模試である。このときには、東北大学医学部ではじめてC判定が出た。Cはざっくりいうと「勝負は五分五分」ということだ。いつもE判定しか見たことがなかったから、これはとても嬉しかった。また、センター試験においてもボーダーとされる91%にこそとどかないが90%の点数をとることができ、東北大学医学部の入試はセンター: 2次試験=1:3であることも考えると2次試験勝負に持ち込めていた。

センター試験の1週間後、訃報が舞い込んできた。北海道で暮らす祖父が亡くなったのだ。小さい頃にソフトクリームをごちそうになっていたあの祖父である。私が10才頃、神経の難病であるパーキンソン病を発症しだんだん寝たきりになっていたことは知っていたが、早すぎる。2次試験のための勉強を少し中断し、北海道で弔事に参列した。それらが終わってから茨城に戻り、1週間くらいぶりに再び勉強しようとしたところ、今でも昨日のように覚えているのだが、窓の外に立つ白い祖父の姿をはっきり見た。黄泉の国に旅立つ前に、激励しに来てくれたのかもしれない。

2月末、仙台で東北大学医学部の入試を受けた。数学で大きな勘違いをしてしまい、自己採点では数学は半分くらいしかとれていないと思う。東北大学医学部の2次試験のボーダーは8割弱なので、英語と理科で挽回しても正直なところ無理だと思った。

気持ちを切り替えてすぐに東北大学医学部の後期試験の対策をしたが、前期試験より高い学力が求められる倍率20倍の試験に合格できるだけの力はなかった。

私立の医学部は国立の10倍くらい高い授業料が必要になるので、お金持ちのご子息しか進学できない。そのため私は国立大学しか出願していなかった。東北大学医学部に落ち、挑戦は翌年に持ち越しになった。

高校3年のときのクラスメートでは岡本大祐くん (現・白河厚生総合病院)が東北大学医学部へ現役合格した。彼は私が一度もとったことのない学年5番以内の常連だったこともあり驚かないが、私が手も足も出なかった試験に現役で合格したのを横目で見て、自分の力のなさを痛感した。

予備校時代

このように大学受験は失敗し挫折も味わったわけだが、良い話もある。それは現役時代に10ヶ月くらいE判定続きであれほど高い高いハードルのように感じていた東北大学医学部にかなり近いところまで迫れていたことがわかったことだ。東北大学は不合格の場合にどれくらいの順位だったのかを開示することができるが、その結果は「不合格A」という「合格まであと (1000点満点中の) 20点以内」という位置だった。もともと英語と理科は得意科目で、数学が相対的に苦手科目だった。現役時代は2次試験の数学 (250点満点) で勘違いをしてしまったがそれでも総合20点以内なのであれば、あと1年間かければ問題なく突破できそうな気がした。

とはいえ1年間も家でやるのは精神的にも大変だ。とてもありがたいことに、複数の大手予備校から入学金や授業料等を全額免除する特待生としてうちに来ないかというお手紙をもらっていた。その中で、最も家から近い代々木ゼミナール柏校にお世話になることにした。

現役の頃の最大の敗因は、塾や予備校に行っていないからこそ、(6年制の中高一貫制ではなく3年間の) 県立高校の宿命として授業が終わるのが3年の冬になってしまい十分に問題演習をする時間を確保する時間が得られなかったことにあると考えていた。(余談だが、小学生でもスマホを持つ今の世代の人からは信じられないだろうが、私が常日頃からインターネットに自由にアクセスできるようになったのは大学生になってからである。高校生くらいの頃は、学校なり図書館なりにあるパソコンのところまで行ってそこでインターネットに接続するしかなかった。このような環境背景だった上に塾等に行っていなかったから、高校の内容を先取り学習して演習に当てなければ現役合格はおぼつかないという情報は入ってこなかった。今だったらちょっと検索すればネットに多数の体験記が出てくるわけだが、当時の私は時代背景もあり今風にいえば情弱だったということだ)

インプットをいくらしても、入試はアウトプットで評価されるのだからアウトプットの練習に時間を割かなければならない。だからこそ特に数学は初歩からやり直した。この頃にしっかりと下地を作ったからこそ、大学入学後に (周りが数学や情報をそもそも勉強しない中で) さらに伸ばしていけたのかもしれない。

こちらは人生をかけて1年後の入試を目指して毎日10時間以上も勉強しているわけだが、現役で合格した同級生たちの話を聞いていると大学1年生はかなり自由に遊んでいるようだ。私ももしかしたら現役で受かったらそうだったかもしれない。しかし相対評価の試験に合格するということは、誰かが落ちているわけであり、合格できた人たちは残念ながら力及ばずだった人の分まで頑張らないといけないと強く思った。私は大学入学後に学部のうちからあれこれと勉強や研究を行うことになるが、それはこの浪人時代の経験や挫折感が大きい。

東北大学へのリベンジに向け、過去問を20年分は解いただろう。代ゼミの種々の模試も、柏校舎の中で3番以内をキープしていた。当然ながら毎日かなりの勉強量をしていたが、さすがに一人でずっとだと精神的に参ってしまいそうだ。幸いにして高校3年の同じクラスメンバーだった水野智仁 (土浦第一→代ゼミ→東北大医学部を経て現・JCHO東京山手メディカルセンター)・大宮啓輔 (土浦第一→代ゼミ→愛媛大医学部を経て現・山梨大学麻酔科 助教) 氏らもいた。東北大学医学部への判定は残念ながらAをとったことはないがデフォルトでBで、体調が悪いとCが出ると感じだった。D以下の判定が出たことはない。体調管理の重要性を学んだ。

2回目のセンター試験は現役の頃とほとんど同じ91%だった。東北大に絞っていたためセンターは全く重視していなかったのでこれは驚くに値しない。2次試験は今度は数学が1番できたと思う。自己採点で数学は9割を超えており、結果も無事に合格することができた。現役の頃に2回受けているので、3度目の正直である。

なんとかして1年で浪人生活を終えることができたのだが、この間は非常につらかった。いわゆる「天才」はこういう経験をせずに進むのだろうが、ここで1年立ち止まったことでこの記事には書かないがいろいろ考えさせられたし、東北大からの不合格通知や浪人時代のノートは今でも折に触れて見返している。自分にとっては必要な、そして大事な期間だったと考えている。

ちなみに後日談だが、当時の東北大医学科の定員は全部で100名だったが、その後増員され一時期135名になった。2023年現在では116名まで減っているが、それでも私が受験した時より2割増ほどの定員がある。「たられば」は禁句だが、今の定員数ならもしかしたら現役で合格できたチャンスもあったかもしれない。ただ、不思議なものでもしここで現役で合格していた場合、諸々のタイミングが合わないことになり30代半ばでPI (研究室主催者) に選出されることはなかったであろう。今浪人中の方もこの記事を読んでいると思うが、一見ブレーキのようでいて実はそうではないということは往々にしてある。自分にとって必要な人やご縁との巡り合わせのために、神様がタイミングを調整してくれているのかもしれない。自分を信じて、人と比較しすぎずに、頑張ってほしい。

大学入学までに身につけたこと

大学入学までの19年間を駆け足で振り返ってきたが、今につながっていることを3つ挙げろと言われたらこのようなものがある。

  • 塾や予備校に頼らず、自分で主体的に学ぶ方法の確立 (予備校に行っていたのは最後の1年だけであり、また授業を聞くというより予備校の自習室利用が大半であった)
  • 自分の天賦の才のなさを痛感させられたこと (特に高校〜予備校時代。だからその分 努力でカバーしなければならない)
  • 継続することの重要性 (小学生時代に6年間水泳をやり通した、中学の卓球で優勝、高校時代のそろばんや将棋の県大会など)

これらを一言でまとめれば、「正しい努力のやり方を時に挫折しながら身につけ、それが自信になったこと」ということだろう。タイムパフォーマンス、いわばタイパを考えればいろいろな寄り道をしていると思う。だがそれが大事なことなのだと信じている。

起承転結でいえば、ここまでが「」にあたるのだろう。これを継して、次の20年が始まる。