この記事はConnecting the dotsの第3話 (清水の大学院生時代) です。第2話 (清水の研修医時代) はこちら

中山敬一先生との出会い

2013年2月。岩手の病院で1年目初期研修医として働きながら、新年度に控える大学院受験のためにいろいろな研究室を探していた。そんな中、1冊の本が頭の片隅から出てきた。「君たちに伝えたい3つのこと」という本で、東北大の学部5年だった2010年に近くの本屋で買ったものだ。本当のお目当ての本は別のところにあって、そこに行くために店内の角を曲がったところで、左手の棚の中ほどに1冊だけあったその本の背表紙のタイトルがなぜか目にとまり手にとったのだ。他に大々的に宣伝している本がたくさんある中で、どうしてそれが気になったのかは分からないが、これも運命のお導きなのだろう。かなりアンチも多いだろうが、医学教育・医学研究を取り巻く環境やキャリアパスを的確に表現している正論だと思った。当時の私には良い意味で非常に衝撃的な本だったからこそ、今でも運命の本を手にとったところまで昨日のように覚えている。その本がきっかけで、著者の中山敬一先生のことを知ったのだった。それから3年、大学院探しをしているときに頭の中に出てきたのは、やはり中山先生がいらっしゃる九州大学だったのだ。

4月、思い切って中山先生に初めてメールをしてみた。とてもご多忙の先生のはずだが、数時間でお返事が来て、5月に面会のお時間をいただけることになった。約束の日は土曜日で、当直があって土曜日の朝までは病院を離れることができず、土曜日の夕方に福岡に到着した。中山先生がホテルまでタクシーで迎えにきてくださり、その日はポスドク・博士課程の先輩とともに会食に連れて行っていただいた。とても気さくに一人前の研究者を目指すとはどういうことか、中山研の教育などについてたくさんのタメになるお話をいただいた。翌日の日中に先生の研究室を訪問したところ、日曜日の午後にも関わらず10数名の方々が研究に取り組んでおられた。聞けば24時間365日誰かは実験をしているので電気が消えることがないという。大事な下積みのトレーニングの舞台としてこれほど素晴らしい環境はあるだろうか? ラボ内の見学をさせていただき、帰りの飛行機に乗ったときには、もう中山先生のもとでお世話になることを決めていた。

大学院1年目: 本格的な研究生活の開始

念願の中山研究室への入門が決まり、期待に胸を踊らせながら、研修医修了証と僅かな手荷物を携えて2014年3月末に福岡空港に降り立った。そして3月31日月曜日、中山研での初日に今にして思えば2度目の運命のイベントが起きた。

中山研では毎週月曜日に研究進捗報告会があり、その日の担当はポスドクの松崎 芙美子 先生 (現・九州大 助教) だった。松崎先生はこの日が中山研最後の日で、翌日4/1から別の研究室の助教になったのでポスドク最後の日でもあった。その松崎先生が発表したのは、解糖系の数理モデリングであり、微分方程式がいろいろ組み合わさった複雑な式はもちろん生命科学実験のデータも含めてこの日が大学院初日の私にはほぼ理解できなかったが、非常に興味をそそられた。実は学部生時代に時間を見つけては専門書を読みに足繁く理学部・工学部の図書館に通っていたので、こういう領域にはaffinityがあったのだ。残念ながら数理の話を聞けたのはこの1回のみで、松崎先生がご栄転された後は数理の話をする生命科学者がラボにはいなくなってしまったが、この時の鮮烈な体験は今につながるキャリアの大事な布石となっている。

中山先生自身は成果さえ出していれば「自由」に来てよいというスタンスであり、コアタイムのようなものはなかった。しかし言うまでもなく「自由」の意味を取り違えてはならない。むしろ科学者としての大事な時期だからこそ、「自由」なんてなく年中無休で働く人も少なくなかった。今の世の中の「働き方改革」の考え方とは全く合わないが、研究者の世界はスポーツ選手などと同じ成果主義・競争社会であり、若い頃にたくさん働いて成果をあげようという人々が集まっていたのである。確かに、周りが平日9時5時で帰る環境ならば1人で頑張るのは精神的にどうかと思うが、周りがとてつもなく頑張っているのであればそれほど苦に感じない。しかし当時の某先生には、新人は「1日15時間」を目標にしろと言われ、覚悟が足りなかったからかさすがにそれはキビシイと思ってしまった。

平日はこんな感じだった。私は朝はすこぶる早起きなので5時起床、1.5時間ほど自宅で勉強 (論文読みなど) してから朝食を食べ、準備をして大学には8時前に到着していた。その後4時間ほど研究をし、昼食を食べながらNature等の新着論文のアブストラクトをチェックし、また13時から5時間研究。いったん夕食休憩をはさんで再び19時から21時頃まで研究をし、家に戻ってから1時間ほど自宅で勉強、そして23時すぎに就寝というスケジュールである。これだと研究時間は8時から21時で13時間、そこから休憩時間を引いて11時間ちょっとである。自宅での勉強3時間を仮に足しても13-14時間にしかならず、某先生に言われた15時間には届かない。

さらに、中山研は土曜日も平日と同じ扱いであり、しかも14時から18時ころまで勉強会があったため、ほぼ平日と同じ日程だった。唯一日曜日だけは半日だけ大学に行き、残り半日で休んでいた週のうち6.5日は1日11時間+α労働だったため、これが会社なら過労死ラインを大きく超えているだろう。GWもお盆も休んだ記憶がない。正月にも大学院生はラボの試薬を作ったり器具を洗ったりする当番があり、休めて3日程度だろう。元旦に当番をしたこともある。

今振り返るとさすがにやりすぎだったかもしれないが、研究者としてできるだけ早く独り立ちできるようになることを目指していた当時は、1時間でも長くトレーニングしたかった。できるだけ早く独立するために、これまで全く縁がなく知人は誰もいない九州に単身乗り込んできたのだ。これが会社とかの命令としてやらされていたら体を壊していたに違いないが、ある意味自分の好きでやっていることであり、長時間という点については全く苦にならなかった

むしろ、精神的に大きなダメージを受け続けていたのはデータである。この頃やっていたのは細胞周期の実験プロジェクトだったのだが、ラボ内に誰もやったことがおらず、さらに指導者としてついてくださった当時ポスドクの先生は海外への留学準備等でお忙しく、私の考えが甘いと言われればそれまでだが、ほとんど指導らしい指導はしていただけなかった。そのプロジェクトについては誰も何も分からない状態で系を立てるところから行っていたが、ほぼ初めてのことを1人で進めるためか、大量の時間を使っても何一つ成果らしい成果はなかった。一方ですぐ後ろのベンチで実験していた私の同期でもある比嘉 綱己 先生 (現・九州大) はスーパールーキーで、1年目から次々に画期的なデータを出し、その上とても博識で頭も非常にキレキレだった。ちょっと贔屓目が入っているかもしれないが、彼ほどの新人を私は知らない。ここまでレベル差が広がっていたので、私は彼のことを非常に尊敬していたし、同期だからこそできるいろいろなdiscussionにもよくつきあってもらっていた。同期の彼にいつも助けてもらいっぱなしの1年だった。

大学院2年目: いろいろな変化

大学院2年目の出来事で最も大きかったのは、9月にチームのリーダー的存在だった武石 昭一郎 先生 (現・米国アルバート・アインシュタイン大) が留学したことだ。チームとはいってもみんな違うことをしていたため事実上は1年目から自分の研究は自分でやれという文化だったが、何かあったときに相談できる先輩でもあった武石さんがラボを去ったことでチームは例の同期と新しく博士1年に入ってきた山内 悠平 先生 (現・京都大) の3人だけとなってしまった。博士課程の1・2年生しかいない「研究チーム」など世のラボには存在しないだろう。それほどこの中山研では個人プレーだったということである。もちろん中山先生は大変お忙しいので、私たちのテーマの最新論文をフォローなんかしていない全て自己責任である。しばしば大学院生は「上の先生に指導してもらえない」ということを嘆くが、研究者になるとはある意味そういうものなのかもしれない。全て自立せよということなのだろうとこの時思った。

大学院2年目は幸いにして日本学術振興会の特別研究員 (DC1) に採択していただいたので、経済的な面ではギリギリなんとかなっていた。DC1に面接なしで採択されたのは間違いなく学部生時代に発表していた筆頭論文があるというのが大きいので、博士課程まで行こうと思っている人は学部生のうちから研究活動に全力投球することをオススメする。

経済的にはOKだったが、精神的にはずっとしんどかった。いっこうに研究が進まず、同じようなところをぐるぐる回っていた。Figure 7つ構成の論文だとしたら、まだFigure 1か2のあたりであり、先は長い。それでいてもう大学院生活の半分が過ぎてしまうというのもあったし、その一方で同期の比嘉先生はもうすでにポスター発表で賞をとるほどデータが蓄積していたというのもあって、余計に焦りも大きかった。ちなみに、比嘉先生は博士課程の最終学年には中山教授からチームリーダーに抜擢され、新たに「比嘉チーム」ができ、すぐに6名前後の大所帯を率いるスターになった。学生がチームリーダーになるのは極めて異例であり、それだけ力が抜きんでいた。

ここだけの話だが、大学院をやめようと思ったことは何度もある。ただ私の場合には幸運なことに素晴らしい同期がいた。上述した比嘉先生もそうだがもう1人、小玉 学 先生 (現・九州大) もそうだ。小玉 先生は正確には中山研へ加わったのが同期なだけで、比嘉先生と私は博士2年だったのに対し、小玉先生は修士課程から入りこの時修士2年だったので、学年としては2つ下になる。小玉先生は病院での勤務経験が長く我々の中では最も年長で、オンオフの切り替えが非常に上手であり、それほどがむしゃらにやっている様子はないのにしっかりしたデータをいつの間にか積み上げているタイプの研究者で、事実、彼の学位論文はこの数年後Nature Communicationsに掲載されることになる。比嘉・小玉先生とは2年目からしばしば土曜日の夕食を一緒に食べに行き、さまざまな話をした。中山研では土曜の午後に論文の抄読会があるのでその後ということになる。また、年に何度か、日帰り旅行をした。こういう同期だけの場でここには書けない話も含めていろいろシェアしながら乗り切った2年目だった。

この2人には大きな影響を受けていて、例えば比嘉先生に勧められた本「反応しない練習」と「嫌われる勇気」は清水がこの7年後に独立した時にラボ運営費を使って新品を買い直しラボ共通本棚に入れているし、自分自身の大学院時代ほど今の大学院生に求めないのは小玉先生の働き方の影響が大きい。研究の面でも、結果的に比嘉先生・小玉先生とも学位論文をnature姉妹誌に発表しており、非常に優秀な彼らとの日常のdiscussionを通して多いに引き上げてもらった。

大学院3年, 4年目: データサイエンスプロジェクトの開始

大学院3年目にあった大きなことは、ドライ解析の勉強を始めたことである。清水はもともと学部生の頃から情報科学領域に関心があったことや研究室に出入りしていたことは学部生時代のエピソードに書いた通りだが、大学院入学後最初の2年はいっさいドライ研究をやらず、分子細胞生物学のウェット研究をずっとしていた。だからこれは大きな変革と言って良い。ちょうどこの頃、すぐそばで研究をしていた同期の比嘉先生がRNA-seqのデータ解析を始めたのだ。これまで中山研ではサンプル調製は自分たちで行うものの、データ測定と解析は共同研究者に依頼していた。そのデータ解析を実験系の大学院生が自分で学び始めたのだ。これに触発されて、私もかつて学部時代にやっていた情報科学に原点回帰し始めた。ちょうどこの頃 (2016年) は機械学習が生命科学・医学研究に応用され始めた時期だった。そういった領域に清水も参入したのだ。

実は実質的には2015年頃からKaggle (データサイエンスのコンペティション) に参加してリハビリを兼ねて勉強していたのだが、大学院3年生の時に初めてのシルバーメダルをとったし、数学検定1級、統計検定準1級といった理論に必要な最低限の基礎学力は大学院2年生までに身につけていた。そういった土台の上に新しいプロジェクトを始動したのだ。

もちろんそれまでやっていた実験系のプロジェクトも並行して行っていたし、学会発表等も行った。それに加えてドライのプロジェクトという、2つの全く別のプロジェクトを進めるのは簡単ではないし、ラボ内にドライの専門家はいないので実験が終わった後の夜の時間に独学で勉強したり研究を進める必要があった

大学院4年目は、大学院1年目から始めた実験系のプロジェクトと大学院3年目から始めたドライ系のプロジェクトの両方とも同時に論文化を進めるため、とても忙しい1年を送っていたが、この頃になるとドライもウェットも馴染みあるものになってきており、どちらの領域の論文も少しの時間で概ね理解できるようになっていたためだいぶ楽になっていた。また、Kaggleでははじめてのゴールドメダルを獲得 (最上位の成績をとること) し、Kaggle Masterに昇進した。2年半ほど勉強のために続けていたKaggleだが、研究教育活動により大きな重点を置くためこれを機にKaggleからは手を引き、自分の2つのプロジェクトに加えてたくさんのドライ系の共同研究を始めた。

大学院4年の冬、東京大学教授 (当時) でヒトゲノム解析の大御所である宮野悟 先生にドライ系のプロジェクトを見ていただく機会を中山先生にいただいた。宮野先生の示唆に富むコメントの数々を原稿に反映させた結果、NHKニュースにも取り上げられるようなインパクトの高い研究成果となったが、この時初対面だった宮野先生がこの5年後に東京医科歯科大学M&Dデータ科学センター長として私の上司になったのは不思議なご縁だ。

また、今後は実験系の研究者であってもある程度のドライ解析が不可欠になると考え、バイオインフォマティクスの勉強会を開始した。ここから2年の間続けることで、一通りの解析技術を教えることができた。

結果的に、大学院1年から始めていた実験系プロジェクトも3年目から始めたドライ系プロジェクトも筆頭著者として論文発表することができ、次のポスドク時代の大きな布石となった。

2021年春、中山敬一先生と清水
2021年春、同期のメンバーと日帰り旅行。向かって左から小玉先生・清水・比嘉先生

参考:同門 (中山敬一先生門下) 教授一覧

中山先生が1996年に九州大学教授に就任されて以来、研究室からはこれまでに16名の教授が輩出している。清水を除く15名の先生方を紹介する。