この記事はConnecting the dotsの第1話 (清水の学部生時代) です。

学部1年

茨城の県立高校出身の私は、現役時代2回、前期・後期試験と東北大学医学部医学科に落ちた。中高一貫校と比べて受験対策が十分ではないのに、さらに塾や予備校にも通っていなかったのだから、当然といえば当然かも知れない。それでも東北大学にこだわったのは、「研究第一主義」「門戸開放」という、研究医を目指す私にとって理想的な環境だと考えていたからだ。だからこそ1年浪人し、いわば「三度目の正直」で第一志望校に合格できた時、飛び上がって喜んだ。

仙台での大学生活はとても刺激的だった。総合大学なので、さまざまな人たちがいた。医療系ではない他の学部の人たちと接点を持ちたくて、医学部生だけのサークルではなく全部の学部生を対象とする部活に入った。もちろん文系の人もいたし、数学・物理・化学・工学の人たちもいた。研究者を目指すなら広い意味の科学を学んでおきたい、そんな思いから、彼らにいろいろ話を聞いて、他学部の学生さんが勉強している教科書を用意し、場合によっては他学部の授業を聴講して勉強したし、むしろ他学部の学生さん以上に熱心に勉強していたと思う。今はかなり分野融合領域を研究しているが、異分野に抵抗がないのはこの頃の影響が大きい

それらの中で、最も興味を持ったのは情報学だった。東北大医学部の1年後期はかなり時間的に余裕があったため、情報の先生に連絡をとり、論文抄読会に参加させていただく機会を得た。この先生の研究室は病院キャンパスではなく山の上にあり、自転車で片道1時間近くかけて通っていた。授業が忙しくなり2年生以降は通えなくなってしまったのだが、半年間もの間、1年生だった私に情報・データサイエンスを手ほどきしていただき、その後この道に進むきっかけとなっている。

1年生は教養科目がほとんどだったが、唯一あった専門科目が細胞生物学だった。この授業が最も生命医学研究に近く、毎回ワクワクしながら授業を聞いていたし、指定教科書だった「Essential細胞生物学」は暗唱できるくらい何周も読み込んだ

他に力を入れていたのは英語学習だ。研究者は英語を使う機会が医師よりもずっと多いので、私のようにもともと英語力がないなら時間があるうちにブラッシュアップさせるのは当然だ。ボキャブラリーを増やしたり、CNN等のニュースサイトを使ってリスニング力を鍛えたり、東北大に来ている日本語力が十分ではない留学生をサポートする団体に加わって英語でコミュニケーションをとる機会を増やした。入学当初はTOEICスコア700程度だったが、毎日英語に少なくとも1時間は触れていたからか1年でTOEIC 900強まで上昇し少し自信がついた。その自信が打ち砕かれるのはここからおよそ15年後のアメリカ留学のときである。

学部2-3年

学部2年生は専門科目が始まり、おそらく試験がもっとも「重い」学年だろう。次から次に新しいことを吸収しなければならない。どの先生も印象に残っているのだが、中でも医化学の准教授だった本橋ほづみ先生 (現・東北大 教授) は印象的だった。もちろん普段の授業も理論整然とわかりやすかったのだが、ある日の授業で当時Cell誌に発表されたばかりのiPS細胞について、どのようにして作りどういう結果が得られたのか、論文のデータを解説してくださった。その授業に触発され、自分も可能なら研究室で科学に触れさせていただきたいと思い、本橋先生および教授の山本雅之先生をアポ無しで訪ねた (当時の私にとっては高校の職員室を訪問する感覚で大変ご無礼をした)。

本橋先生は朝が大変早く、毎朝6時にはいらっしゃる。そこで朝7時からトレーニングしましょうと言っていただいた。一人前の研究者のようにデスクとベンチをいただき、翌朝からトレーニングが始まった。DNAの切り貼り、大腸菌の取り扱い、電気泳動、PCR、細胞培養など、一般的な生化学・分子生物学実験の初歩はこの山本研で教わった。また、本橋先生・山本先生のライフワークであるKeap1-Nrf2という酸化ストレスに対処する仕組みについての研究のお手伝いをさせていただいた。

研究室に通わせていただくようになり、自分でもいろいろな論文を読み始めた。もちろん分からないことが多く、ほぼ全て調べていたので、1本読み切るまでに1週間近くかかった。その中で印象的だったのは、RNA-seqの開発論文である。当時もマイクロアレイと呼ばれる技術はあったが、この新しい方法はそれとは全く原理が違うものだった。これからの時代は、こういうビッグデータをうまく解析することが必要だなと感じ、この方法を開発した著者に個人的に連絡をとって、その情報解析方法をいろいろ聞き出した。それまでもC言語を使ったプログラミングはいろいろ経験があったのだが、筆者らはPerlとRという全く別の言語を組み合わせていた。これらのスクリプト言語はCと違って技術的には簡単であり、だからこそ今後は生命科学・医学研究で広く使われるようになるだろうなと思い、自分でも勉強を始めた。今は昔と違って大学入学試験科目に「情報」があったり、小学校から「プログラミング」の授業があるので、今の学生さんにとっては容易にマスターできるだろうが、デジタルネイティブではない私にとって特にRは (C言語とはいろいろ違うので) ちょっと苦労した。

また、生化学の研究室なので基礎知識をつけるために「ヴォート基礎生化学」という本の通読も行った。「基礎」なのだろうが私にとっては知らないことばかりであり、また800ページもある本だったのでとても勉強になった。

学部3-4年

東北大では3年の秋に「基礎修練」と呼ばれる4ヶ月の研究室配属がある。もちろん山本先生のもとにそのまま残るのも考えたが、3年生になって病気についても学び始めたことで、純粋な生命科学研究というよりはもう少し病気に近い領域を研究したくなっていた。そこで、がんを研究している分子病理学の堀井明 先生のもとでお世話になることにした。学部生教育に非常に熱心で、3学年上の学部6年生・吉野 優樹 先生 (現・東北大 助教) が筆頭著者として論文を発表していた。学部生時代の論文執筆を目指していたので、目標となる先輩がいたのは大きかった

実際に指導していただいたのは、当時准教授だった福重真一 先生 (現・東北大 特任教授) で、DNAメチル化が起きた遺伝子を網羅的に探索する方法の開発とその膵がんへの応用について研究させていただいた。今でこそエピジェネティクスをRNA-seqで調べる手法はいろいろあるが、この当時はそもそも次世代シークエンサー自体が開発されたばかりだった。

基礎修練で一緒になった同級生と堀井研の先生方。向かって右から2人目が清水で、3人目が福重先生。

研究室配属はとても楽しかった。朝7時半頃に大学に行って、9時まで実験を行い、9時から1時間は堀井教授が毎日勉強会をしてくださったのでそれに参加し、そして10時からまた実験の日々だった。学食で昼食・夕食を食べ、大学を出るのはいつも22時すぎだった。おそらく東北大医学部の同級生100人の中でこの期間は最も研究に打ち込んでいたと思うが、授業よりも研究はずっと楽しかったので、全然苦にはならなかった

福重先生のお導きのおかげで、4ヶ月の研究室配属期間で多くのデータを出すことができ、一番最後にあった基礎修練発表会において最優秀賞をいただき、ご褒美に東北大学から将来的な国際学会発表の機会をプレゼントしていただくことになった。

学部4年生になって毎週試験が入るようになっても授業後に毎日研究室に通って研究を続け、そして春休みにハワイ島で開かれたアメリカがん学会で発表した。一番最初の学会発表が国際学会で、相当緊張したし言いたいことの一部しか伝えられなかったが、今でも最も印象に残っている学会である。また、一緒に参加した堀井先生と2人でレンタカーを借りてハワイ島を1周し、道中さまざまな話を聞かせていただいたことも忘れられない思い出として残っている。

堀井先生には遠く及ばないが、私が学部生さんへの教育を重視しているのは確実に堀井先生の影響が大きい

はじめての国際学会で堀井先生と

学部5-6年

国際学会を終え、次なる目標を論文としてまとめることに設定し5年生になっても研究を続けた

5年生は試験がなく、実習も夕方には終わることがほとんどだったのでそれ以降の時間帯はずっと研究ができたのだ。

また、2学年下の後輩に熱心な人が多く、彼らもまた毎日堀井先生の研究室にやってきては23時、0時すぎまで研究をしていたのでいい刺激をもらっていた

さらに、後輩にあたる水口 康彦 先生 (現・国立がん研究センター)、藤原 翔 先生 (現・遠野病院)、鈴木 聡志 先生  (現・東北大) らと学部生向けの自主勉強会を立ち上げ、希望者を募って論文抄読会を始めた。

臨床実習と論文読みと自分の研究を並行して行い、5年生のときに日本国内の学会でデビューした。

はじめての医学系学会デビュー

5年生のもう1つの思い出は、1冊の本を本屋で見つけたことだ。34才で九州大学の教授になった先生が書いた「君たちに伝えたい3つのこと」というタイトルの本で、医学生向けに研究の大事さを解き、さらには研修医なんかせずにストレートに研究の道にいかなければ、理学部・工学部出身で22才には大学院に入る人たちに何年もの差をつけられてしまうという内容だった。他にも研究業界の真理をついた筆者の見解がたくさん書かれていて、「医学生なのに (診療ではなく) 研究に行きたい」という気持ちを強く後押ししてくれた。この時はまだ、この運命の本を書いた先生のもとに大学院生として弟子入りし、先生と同じ34才で先生の母校である東京医科歯科大学の教授になるとは全く思っていなかった

5年から6年へ上がる春休み、論文化に向けて研究室で最後の追い込みをしていたところ東日本大震災が発生した。震度6強の強い揺れでさまざまなものが使えなくなり、1週間避難所のお世話になったが、幸いにして怪我はなく研究活動が復旧まで1ヶ月ほどかかっただけで済んだ。6年生の6月には念願の論文がアクセプトされ、「学部生時代に筆頭著者として英語論文発表」の目標は達成できた。いつも論文検索のために使っていたPubMedに初めて自分の名前が掲載されたのはとても感動した。

6年生は就職活動 (マッチング) や卒業試験 (卒試)・国家試験 (国試) といった人生の節目の学年だ。論文が通ったため、少し研究を休んでマッチングに専念することにした。むろん、研究に進むというのは入学当時から全く変わっていなかったが、「君たちに伝えたい3つのこと」とは違ってストレートに研究に進むのではなく臨床研修をしたのは、将来的にbenchside to bedsideへのトランスレーショナル研究をするために幅を広げたかったからだ。2年遅れた程度で研究者として全然ダメなのであれば、そもそも卒業後ストレートに大学院に進学しても大成しない、そう思っていたし、今でも悩んでいる医学生には「初期研修だけはした方がいい」とアドバイスすることにしている。

ちょっと脱線したが、研修医としてはよくあるコモンな疾患をみたかったということ、そして大規模病院ではなく200-400床程度の地域の中核病院で訓練したいということもあり、いくつかそのような市中病院を見学し、最終的に自分にとって一番成長できそうな岩手県立中部病院に初期研修の2年間お世話になることにした。採用面接のときに「(臨床ではなく) 研究者志望の方を採用する当院にとってのメリットを教えて下さい」という少し試される質問もあったが、最終的に第一志望のこの病院に内定が決まった。

研修病院が決まったので、再び研究室にも通い始めた。後輩と主催していた学部生の論文抄読会を継続して論文を読む機会を意図的につくり、ちょっとした実験も行っていた。こちらについても、公開されたのは研修医になった後だったが別の論文として発表することができた。

この頃は、毎日朝1時間ほど研究室に顔を出してから図書館に移動し9時から17時くらいまでは国試の勉強をして、その後は研究室に戻るという生活だった。同級生はみな受験生なみに1日10時間とか12時間とか国試勉強をしていたので、だいぶ国試勉強時間は少なかったことになる。その代わり、「細胞の分子生物学  The Cell」という生命科学研究者で知らない人はいない本や、もう絶版になってしまったがマウント著「バイオインフォマティクス」といった合わせて2000ページの本を通読し、自分の研究者としてのキャリアに先行投資していた。また、この頃Pythonの日本語の本が出始めたため、さっそく遊んでいた。もちろんPythonの英語の情報はすでにいろいろあったのだが、当時は似たようなRubyというプログラミング言語が (日本人が開発したため) 国内では圧倒的に優勢だったのだ。この頃にPythonを修得したことで、翌年畳み込みニューラルネットワークが登場したときにいち早く参入することができた

また、学部生時代の数年に及ぶ研究活動とその成果が評価され、日本学生支援機構から優秀学生顕彰・優秀賞 (学術部門) をいただいた。学部生のうちから先生方のご厚意でいろいろな経験をさせていただき、その後に続く研究者としてのとてもよい最初の地盤固めになった6年間だった。だからこそ、先生方によくしていただいのと同じように、意欲的な学部生さんは今度は私がサポートしたいと考えている。

他の受賞者の方々 (の一部) との写真。向かって一番右が清水
向かって右から、福重先生、卒業証書を持った清水、堀井教授