この記事はConnecting the dotsの第4話 (清水のグループ長時代) です。第3話 (清水の大学院生時代)はこちら

ウェットからドライへ

2018年4月、九州大学の学術研究員になると同時に、中山研にいくつかある研究チームの1つをまとめることになった。とはいっても、みんなそれぞれ違うテーマをすでに持っていたのでそれほど大きな変化はない。

大学院時代は主にはウェット実験をやっていたが、大学院時代の終わりにかけてドライを始めており、この頃にはもう清水はラボ内で唯一の数理情報系の人として認知されていた。そもそも学部生時代には30近いコンピューターソフトを開発し、そのいくつかは商品化もされた。今でこそバイオメディカル系の学部生にもこういう人は増えているが、清水が学部生だった2000年代後半はそのような学生はほとんど皆無だった。さらに、国家資格である応用情報処理技術者 (IT系企業で5-10年ほど経験を積んだ人が挑戦するレベル)やバイオインフォマティクス認定技術者も大学院に入る前にとっていた。「普通の」医学生と同じように卒業し、博士課程の途中にはじめて情報学に触れたわけではないことは書いておかねばならない。中山先生も清水の過去のこういう実績を知っているからこそドライをやらせてくださったのだ。本来中山研はずっとウェット研究をやってきたラボであり中山教授も2021年に分子生物学で紫綬褒章を受賞している。ラボのこれまでの方向性とは大きく違うのにも関わらず、ドライを自由にやらせていただき感謝している

ただ、そんな寛大な中山先生と言えど最初から自由にやらせてくれたわけではない。特にその分野の指導者らしい指導者がいないのにデータを出されても評価できないというのが実態だろう。「どの程度の力があるのか」というのを中山先生が測るために、データサイエンスの専門家の先生方に私が1人でやっている研究内容を見ていただく機会を設定していただいた。博士課程4年の冬にお会いさせていただいたのが、東京大学教授 (当時) でがんゲノム研究の第一人者である宮野悟 先生だった。ちょうど2017年の分子生物学会のシンポジウムで宮野先生と中山先生は共同座長を務めていたので、そのシンポジウムの後、学会会場にあったカフェで研究を見ていただいた。その席で宮野先生からポジティブなお言葉をいただいたことで、中山先生が私のドライ研究をお認めになり、学術研究員になる頃にはかなり自由にやらせていただいていた。その5年後、東大を退職した宮野先生が初代センター長を勤める東京医科歯科大学のM&Dデータ科学センターで独立させていただくことになるとは、運命は不思議である。

もう1人、産業技術総合研究所 (産総研) の人工知能センターでチームを束ねていた瀬々 潤 先生にも2018年の夏にお会いし、AI研究を見ていただいた。メディカルAI領域で知らぬ人はいない大御所中の大御所とも言える瀬々 先生のお墨付きを得たことで、直属の上司であった中山先生にも「俺は分からないがどんどん好きなようにやれ」と言っていただくことになったし、お二人の先生方にいただいたコメントのおかげで研究が強化され、日経新聞NHKなどにも大きく報道していただいた。

私の学位論文や指導教官を知る方々からは、どうしてドライにとよく不思議がられるが、直接はこのような経緯であるし、間接的には学部生時代の経験が大きい。

真に自立した立場へ

研究者を目指す上では学位取得はただの通過点であり、学位取得前も取得後も (指導教官ではなく) 自分で責任を持って自分の研究を進める必要があるのは変わらない。だから昔は大学院生もポスドクも何も変わらないと思っていたし、実際に自分の研究を遂行することに関しては、大学院生であっても「学生」ではなく「自立した研究者」でなければならないと今でも思っている。自分が毎日取り組んでいるテーマに関しては、大学院生だろうが世界で一番詳しくないとまず研究者にはなれないだろう。

しかしそれ以外の点について、学位取得前後でいろいろ変わった。まず一番大きいのはさまざまな研究資金を申請する立場になったことだ。学生時代も、学振特別研究員として少し研究費をいただいていたがそれとはぜんぜん違う。いいアイデアがあっても、素晴らしい研究遂行能力があっても、研究費がとれなければ絵に描いた餅である。大学院生は研究費を自分で取らなくても研究をさせていただけるわけで恵まれているが、研究者としては研究費が取れないと何もできない。本当の研究者はお金を集めるところも大きな腕の見せ所である。

2つ目に、さまざまな講演に呼んで頂くようになった。もちろん大学院生はほとんど論文がないので招待講演に呼ばれることはないと思うが、ポスドクになり少しは研究実績も増えたことでいろいろな機会に呼んでいただき、そこで知り合った先生方とまた別のプロジェクトが始動してという感じで共同研究も大学院生時代よりはずっと増えた。

さらに、ポスドクになるとちょっとした教育もするようになった。本来はポスドクの仕事内容に教育は入っていないため断って研究に専念しても全く問題ないはずだが、学部生時代の記事に書いた通り個人的に学生さん教育を非常に重視しているため、中山先生の研究室の門を叩く学部生さんの直接の担当をすることが多かった。テーマの設定も中山先生から一任されていた上、当然学生さんは最初は何もできないところからスタートなのでいろいろ大変だったが、幸いにして九州大学の学生の中でも非常に優秀な学生さんばかりで熱心に取り組んでもらった。その何人かは継続して研究を続け、学部生のうちに学会で発表してもらったり、アメリカ留学後も定期的に研究の進捗を聞いていた。

後列左から2人目が清水。前列は学部生、後列は大学院生・研究員。

これらの3つ、自分で研究費を獲得する、研究業界におけるネットワークを作る、人を育てる経験は、本当の意味で自立した研究者になるために不可欠であり、研究だけに取り組むのではなくこういったこともポスドクのうちに経験できたのはとてもよかった

次のステージへ

もちろん、ポスドクである以上は本業は研究であり、成果を出さなければいけない。学位取得後の3年で、筆頭論文3つ、共同研究10弱、特許3つ、著書1を出した。

一般的に、生命科学系のポストではimpact factorの高い雑誌への掲載がステータスであり、そのためには10年かけて1本という研究者も少なくない。一方でデータサイエンスの世界では、語弊があるかもしれないが論文の数が重要な要素であり、ある一定以上の評価を受けている雑誌に短めのスパンで論文を次々に出すということが求められる。バイオロジーのような5年あるいはそれ以上かけて1本しか発表できないと次のポストはない。

私はこの両者のカルチャーの間に位置する研究をしていたのだが、この頃から幸いにしていろいろな声をかけていただくようになった。詳しくはここに書けないのだが、国立の講師・助教ポジションをオファーされたことは何回もある。なかなかポジションが見つからないポスドクが多い中、大変ありがたいお話である。

ただ、私は一度海外に出たかった。これも学部生の頃からずっと思っていたことである。海外、特にアメリカに渡り、そこでのやり方を垣間見て研究を俯瞰したい。日本にいては東京が中心のような錯覚に陥るが、実際には東京などアジアに数多ある都市の1つに過ぎず、決して世界の中心ではない。いわんや福岡をや。福岡でポスドクをしていた私にとって、そして日本でしか研究をしたことがない私にとって、海外に出てグローバルスタンダードを学んでくるというのは研究者のキャリアパスに大きなプラスになるに違いない、そんな風に思っていた。だからオファーをくださった先生方には大変申し訳無いが留学をしたいという希望を伝えて丁重にお断りさせていただいていた。

その留学先探しは結構難航した。いわゆる「コネ」があるわけではないので、いきなりCV (履歴書) を意中の先生方に送るというスタンスでアプライすることになるが、当然ながらアジアの小都市にいるどこの馬の骨だか分からないポスドクの手紙なんか、お忙しい先生方はじっくり読むはずがない。事実30出してそのうち27はお返事すら来なかった

その例外の3人のうちの1人がPamである。Harvard Medical Schoolのシステム生物学部門の教授で、2020年4月から受け入れると言ってもらえた。幸いにして留学に必要なフェローシップも取ることができた

2020年3月8日、渡米まで目前のタイミングで事件は起きた。2019年末に中国で発生したCOVID-19の感染者がついにHarvard Medical Schoolでも確認され、3ヶ月間ロックダウンするというのである。当時日本の方がアメリカよりずっと感染数は多かったが、日本の大学でロックダウンした大学はなかった。Harvardのスピードの速さには驚いた。

いきなり4月から研究の場所がなくなることになってしまったが、ここで救ってくださったのはまたしても中山先生だった。3月末までのポスドク雇用だったのだが、4月から再雇用してくださるとのこと。しかも「いつまでもいていい」とおっしゃっていただいた。いや「いつまでも」ポスドクでいるつもりはないのだが (笑)、プレッシャーを感じずにコロナが落ち着いて留学できるまで引き続き自由にやってよいというのはとても嬉しかった。

独立の原動力になった「ギャップ期間」のプロジェクト

もともと3月でラボを離れるつもりだったので、やっていたプロジェクトはすべてまとめていた。だから2020年4月から、また新しいプロジェクトを始動させる必要がある。そんなときに目をつけたのが、私の留学を遅らせたコロナの治療薬探索プロジェクトだ。具体的には、AIを使って構造が分かっていないタンパクでも (アミノ酸配列だけで) 阻害剤を見つけるという野心的なプロジェクトだったが、幸いにして半年足らずでAIを構築し、さらにそこから半年ほどでコロナ治療薬候補をいくつも同定することができた。このAIは長い名前の頭文字をとってLIGHTHOUSEと命名した。このいわば不可抗力でできてしまった留学までのギャップ期間で取り組んだプロジェクトが、翌年「感染症データサイエンス」の経験があるインフォ系の求人を出した東京医科歯科大学の目にとまり、独立ポストのオファーにつながるとはこの時は全く思っていなかった。つくづくご縁やめぐり合わせだと思う。

2020年4月から、結局なんだかんだで1年間引き続き中山先生のもとでお世話になった。この1年、実質は10ヶ月でプロジェクトの立案から論文用のfigure作成までほとんど全てを行うことができたのは幸運だったと言って良い。グループのみんなにも、一度送別会をしてもらったのにさらに1年近く一緒に働かせてもらった。みなさんの支え合って、2020年度は一番充実した1年だったと思う。コロナもいったん落ち着き、2021年3月に渡米し、2021年4月から念願のアメリカ生活がスタートすることになる。

2014年からの大学院時代、そして2018年からのグループ長時代、合計7年過ごした中山研は、研究者としての下積みの全てをさせていただいた期間だった。

中山研最終日の集合写真。最前列右から3人目が清水