研究者のキャリア形成はポストの空きなども含めて一種の「運」に例えられることも多いです。そういった要素があることは事実ですが、幸運を引き寄せる確率は自分の戦略次第で飛躍的に高めることができます。研究の世界で「自分は運がいい」という先生のお話を直接いろいろとお伺いする中で、私は「運がいい」というのは謙遜であり、そういった先生方は優れた先見の明をお持ちで遥かに以前から継続して行動されてきたことを知っています。卓越した戦略のもとで正しい努力を影でされているからこそ、そうした先生方のことを何も知らない方が外から見たら「運がいい」ように見えるのです。

研究を継続していく上では、正しい時に正しい場所にいるための戦略がとても大事です。つまり、日本ひいては世界の情勢や潮流を先読みし、短期的には数年先に次にやってくる波は何かを正しく予測し、中長期的には10年、20年先のライフサイエンス研究はどうなっているのかを考え、その領域に今のうちからコミットするのです。もちろんアーリーアダプターとして参入するので最初は自分で切り開く必要がありますが、予想が的中すれば大きな先行者利益が得られます。大きな波が来て、みんながその領域に関心を持った後に参入するのは遅すぎるのです。

しかるべき先行者としてのポジションを得るためには、この先どうなるかのビジョンをしっかり持つこと。そして今は変化がすごい速さで起こっています。ある特定の研究対象や解析技術だけでは、みなさんがこれから30年、40年と成果を出し続けるのは不可能でしょう。常に情報をキャッチし続け、自分の研究にも新規テクノロジーをいち早く取り入れアップデートしていく必要があります

この記事では、参考までに私の見立てを紹介します。みなさんはこれからいろいろな研究室を見学すると思いますが、ラボのホームページに書いていなくても必ずボスに意見を教えていただくことをオススメします。

生命医科学研究はどこに行くのか

1) オミクス計測技術開発は2025年頃にピークを迎え、以降はシステム生物学・合成生物学の波が来る

この記事を書いている2023年2月現在、ゲノム・トランスクリプトーム・プロテオーム等の各種オミクスデータは比較的容易に取れるようになってきました。ロングリードシークエンサーや1細胞解像度技術は数年前の花形技術になりつつありますし、今は空間トランスクリプトーム系がホットです。また、トランスクリプトームとエピゲノムなど、複数階層のデータを同時に測定する技術も登場してきました。

オミクス技術開発はこの後もおそらく続きますが、無限に続くわけではありません。シングルセルレベルの空間解像度で、複数のモダリティからの情報を取得できる技術が登場すればオミクスの技術開発側面はいったんピークを迎えると予想しています。

今から2年後の2025年にピークを迎えた後に大事になってくるのは、膨大なオミクスデータをつなぐためのシミュレーション手法の開発であり、本質的に時間空間スケールの変化によって生命医科学現象が起きていることを鑑みれば、変化を記述するための微分方程式を使った数理モデル、もっというとシステム生物学で培われてきたモデルを使い、個々の遺伝子といったパーツレベルに落とし込むスタイルの研究から生命現象や疾患を「精緻なシステムとその破綻としての疾患」として理解しようという方向に研究の主流が動いていくでしょう。細胞の中の個々のパーツを見るだけでなく、それらを統合して回路やネットワークとして調べるという発想が求められるようになるでしょう。例えば疾患のGWASをして責任遺伝子を見つけるというような研究から、責任遺伝子がどのような順番で/どれくらいの強さで変化するからこそ疾患になってしまうのかをシュミレーションするといったような研究が主流になると予想しています。また、データも複数種類のモダリティで得られたものを統合することがより強く求められるようになると考えています。この点をデータ解析で下支えするためには、現在のバイオインフォマティクスや生物統計学に加え、数理モデルの知識が不可欠になるでしょう。特にシングルセル解析には現在もAIは使われていますが、ネットワークベースのシュミレーションにもAIを駆使した新たな方法が登場すると考えています。

そしてその先は合成生物学がいま以上に大注目されるようになるでしょう。物理や化学の基礎研究の結果、現象をシュミレーションすることができるようになり、それを工学的に応用して一大産業がおこりました。スマホやパソコンなど身近なアイテムはさまざまな物理・化学の真理を応用していることは想像に難くないでしょう。生物学は物理や化学と比べて近代的な研究の歴史が浅いので、20世紀までは定性的な側面が強かったわけですが、21世紀初頭に網羅解析ができるようになった結果、物理や化学と同じく生物も定量的にかつ高精度にシミュレーションできる時代になれば、生物学にも工学の要素が強まってくるでしょう。大規模データ計測とデータサイエンスによりいわば「設計図」が手に入れば、それを改変したり組み合わせたりして所望の性質を持つシステムを作り出せるのです。例えば、データ科学で見つけた病気の標的分子に結合するような中分子を量産するデザイナーバクテリアができるかもしれません。これは決してSFではなく、例えばシクロスポリンという免疫抑制薬は土壌菌が産生する環状ペプチドとして見つかりました。ということは、逆に微生物に例えばゲノム編集技術を使って操作を加え、薬を生産する微生物を作り出せるはずです。細胞レベルの改変としては2023年現在はCAR-T療法ががんに対して試みられていますが、情報科学によりデザインした細胞が病気を検知することも増えるでしょう。あるいはAIの計算ができる細胞も作られるでしょう (実際、先駆的な取り組みとして2層ニューラルネットワークの計算ができる大腸菌がNatureに報告されています)。病気の研究に関しては、オミクスデータ取得の高度な情報解析や数理モデリングでその病気の本態を解明し、そしてその病気の治療薬や早期診断センサー、あるいはそもそも病気にならない仕組みづくり (予防方法) の開発といった臨床現場への還元という出口を志向した一貫した研究が行われるようになるでしょう。 2035年ころからは本格的な量子コンピューターが生命医科学研究にも使われるようになり、特に量子機械学習による創薬とネットワーク推定で大いに力を発揮するはずです (逆にいえばその他の計算は現在の「古典コンピューター」との併存になります)。

2) 実験はクラウドでやるようになり、ウェットとドライの境界はなくなる

私が医学部に入った2006年当時は、ほとんどのライフサイエンス系研究者はいわゆるウェット (実験) で、ドライ (コンピューター解析) の先生はかなりの少数でした。2007年に次世代シークエンサーが登場したこともあり統計科学など異分野からライフサイエンス領域に入ってくる先生が増え始め、昨今のデータサイエンスの流行もあってドライ系の先生は以前よりはるかに増えています。

それでは今後はどうなるのでしょうか? 私はウェット系とドライ系の境目は完全に消滅すると考えています。実験は単純作業の反復を伴うものですが、そのかなりの部分はロボットで代替できるようになり、その結果近未来のライフサイエンス研究は下の動画のようにクラウドで行う時代になるはずです。

現在のライフサイエンス研究、特に実験系は、労働集約型の要素も大いにありますが、これからのライフサイエンス研究は何をするのか、どのような手順で行うのかといった計画やデザインといったより頭を使う側面が強くなり、そしてロボットが行う実験結果をきちんと解釈・解析する技術が今よりも高まるでしょう。これはつまりwet系の研究者であっても情報科学の知識や技術がますます求められるということです。逆に数理情報系出身で生命医科学研究に入ってきたいという方にとっても、実験へのアクセスが容易になるということはつまり、従来はデータ解析それ自体が価値のあるものだったのに、そのデータ解析の結果見出したことを実験で実証することが求められるようになるでしょう。そういう時に、生命医科学実験の知識もあり、wet系出身者と対等に議論できるdry系の専門家は産学問わず引く手あまたになるでしょう。つまり、生命科学と情報科学の垣根は限りなく小さくなり、どちらもできる二刀流がますます求められる時代になるはずです。

そしてその二刀流を前提とした上で、wetかdryのどちらか、そしてさらにその中の特定の領域において卓越した専門性が必要になるでしょう。

私は大学院生は研修医のようなものと認識しているのですが、研修医制度は昔は最初から専門科を決めてその特訓ができるが他の科のことは何も分からないというものから、2004年に幅広い診療科をローテートして医師としての土台をつくるジェネラリスト育成制度に変更されました。その上で研修医を終えてから各自の専門を修練していくのです。大学院時代もこれと同じで、貪欲に幅広い技術や知見を吸収し、ポスドク以降で各自が選んだ専門性を高めていけばいいと私は考えています。まだ論文を書いたこともない段階、どんな研究の世界があるのかもよく知らない段階から、ある特定の狭い領域に特化しすぎるのはどうかと思っています。幅広い領域を学ぶには、当然ですがかなりの時間を必要とします。研修医が相当の時間を修練に使うのと同様、大学院生は将来への大きな自己投資期間です。近未来はどこにいても (在宅からでも) 実験ができる時代になります。大学院生には、バックグランドに関わらず高度な数理情報科学と (医療や創薬を含む) ライフサイエンスの両方を猛烈に勉強・研究してほしいと思っています。

3) バイオ・次世代医療研究・AI (+量子技術) を高いレベルで習得できれば職に困らない

研究者としてアカデミアにせよ産業界にせよ雇用してもらうためには、当然ながらそこにお金がなければなりません。これからどのような雇用が創出されるのかは、国の意向もよく見ておくといいでしょう。例えば2022年に岸田政権はバイオ・次世代医療・AI・量子技術に重点的な投資を行うことを決めました。さまざまな科学技術がある中で特にこの4分野を選んだのです。政府の投資額は桁が違いますので、支援を受けて今後これらの領域のポストが増えていくでしょう。もちろんアカデミアだけでなく産業界への支援も含まれていますので、企業もこれらの領域に明るい人材の雇用に注力するようになるでしょう。特に有効な自己投資は、これから伸びそうな領域を先回りして習得することです。私たちが大学院生に医療とバイオと情報科学をいずれも指導するのは、こういう背景もあります。卒業後、多方面から声がかかるでしょう。

また、意欲的な学生さんからの量子コンピューター・量子機械学習・量子化学といった量子を使った研究提案、大歓迎です。